また戦争の時の話。
15日は終戦記念日ですね。テレビや新聞ではその関係の話題でいっぱいで少々食傷気味かと思いますが、まあー年に一度くらい戦争に関わることを考えてもいいかと思います。まだまだ、戦争で悲しい思いや辛い思いをした人が日本にはいっぱいいます。政治家がもっとしっかりしておればやらなくていい戦争だったのじゃないかとか、日本の戦争参加は外国からの圧力によるもので仕方のなものだった、とか。いろいろ議論すればいいと思います。
でも、戦争をやって、連合軍に負けて、アメリカに進駐されたことが結局よかったのかな、なんて考える事もできる。平和憲法ができて、69年間平和が続いてきて、経済が発展した。オリンピックや万国博等国際的イベントを一応やり終え、一流の平和国家として世界に認められてきた。
まあ、どっちにしたって戦争をやって迷惑するのは一般の国民だし、犠牲になるのはもっとも末端の人たちだ。
さて去年も戦争中の話をしたが、今年もしたいと思う。でも私自身戦後生まれだから私自身の経験したことではない。私の母から聞いた話だ。
まだ二十歳もなっていない頃、化粧もできず、食べたい物も食べられず、毎日のようにアメリカ軍の爆撃機の空襲に神経をとがらせ、青春時代を生きぬいてきた母からの話である。ただ、特にこれを持って戦争反対とか、賛成とか言っているわけではない。そんなドラマチックな話でもない。
終戦直前、昭和19年くらいだろうか。ある若い男性がいた。彼の家族といえば、母親と幼い弟妹が数人いた。父親はすでに亡くなっていた。彼は徴兵検査も合格し、ひたすら召集令状が来るのを待っていた。しかし、なかなか来なかった。同じ年頃、友達は次々と召集されているのに自分には来なかった。毎日毎日イライラして、郵便箱を覗いていたという。
来ない理由として、父親がいない事があった。彼自身が家族を養わなければならない立場であり、役場がそれを考慮していたのかも知れない。
しかし彼にとってそんな事は関係ない。国家存亡の時、家族も大事だが、それ以上に国の役に立ちたいと思う気持ちが先立っていた。それに兵隊に行かない者は一人前の男ではない。「非国民」と陰口をたたかれる。世間にはそんな風潮もあった。そんな周りからの精神的圧力もあったのかも知れない。
結局、行かざるをえないのなら、早く行きたい。そんな気持ちだったのだろう。
召集令状が来たとき、彼は嬉しかった。これでやっと普通の男になれると。でも母親は複雑な気持ちだったと思う。口には出さないが。
余談だが、私の母親は私の子供の頃、よく話してくれた。「あなたは男の子だから戦争が起こったら戦場に行かなければならない。男の子は家の跡継ぎだから産んでおかなければならないが、戦争に取られるくらいなら、産まない方がましだ。」と。
そして、ベトナム戦争やキューバ紛争、中東戦争などが起こり、戦場からの映像をテレビで見るたび、ビクビクしていたのである。戦争を経験して、多くの若い男性の戦死を見てきた母親にとっては他人事ではなかったのだろう。
幸いにもこの年になるまで私は戦争に行かずにすんだ。だからこそ私より若い人達にも戦争に行って欲しくない。
話を元に戻す。
召集されたものの、すぐには戦地へ赴くことはなかった。新兵だったし、それなりの準備や訓練が必要だったのだろう、内地にしばらくいた。
そして、いよいよ南洋の最前線へ船で赴く事が決まった頃の話。
彼は上官から用事を頼まれた。公用である。でも、その用事が終わって、時間が余っていれば家族に会って来てもよいという。用事の先が彼の家の近くだったし、用事の内容もそんなに時間がかかるものでもなかった。つまり表向きは公用で外出したのだが、ホントは、たまには家族に会ってこいといった上官の粋な計らいだったのだ。
久しぶりに母親にあって、嬉しかった。嬉しかった。でもこの時、母親はどんな顔をして、どんな気持ちでいたか、それはわからない。聞いた話にはそれはなかった。
その後、多くの兵隊とともに彼は船に乗って、戦地へ赴くこととなる。
しかし、いやな噂を聞いた。
ひとつ前に同じように多くの兵隊を乗せて出航した船が、アメリカの潜水艦の攻撃を受けて撃沈されたという。乗員も全滅したという。これがほんとうなら、多くの若い兵隊達は戦地で戦うことなく、海の藻屑と消えてしまったのだ。
当時のことだから、公の発表はなかったが、噂があった。
ひとつ前の船に乗っていたら死んでいたかも知れない。何ひとつ、国のためになる事もできず死んでいったのである。
そして彼がいよいよ船に乗ることとなる。
しかし、そこで終戦となった。
彼は、残念と思ったろうか? それともよかったと思ったろうか?
母親はそれから毎日のように息子の帰りを駅で待っていたという。
「彼」は戦後、サラリーマンとして日本の経済発展に寄与した。
そして70歳まで生きた。
私の伯父である。
********************************
安倍首相は徴兵制はないという。憲法上。
でもそれは安倍首相の個人的意見であって、10年後、20年後の首相がそれを請け負う保証はない。
さらに、徴兵制はなくとも、軍隊に志願する若者、または志願しなければならないような風潮が蔓延するとも限らない。
ひとの心は変わるものだ。
自衛隊の存在自体、憲法違反であるといわれたこともあった。
それが今ではそういう事を思う人はいないだろう。三年前の東日本大震災の救助活動の活躍振りを見るとなおさらだ。
20年後、せっかく集団的自衛権があるのだから、たまには国外へ出ようよ。徴兵はできないから志願兵を募ろう。なんていう政治家や軍人が出てこないとも限らない。
でも結局、前線で戦うのは「彼」のような若い素人兵隊だ。職業軍人や年嵩の軍部上層部は銃後の立場で命令するだけだ。まるでゲームの駒を操るように。
戦争はゲームではない。負けそうだからといってリセットはできない。
15日は終戦記念日ですね。テレビや新聞ではその関係の話題でいっぱいで少々食傷気味かと思いますが、まあー年に一度くらい戦争に関わることを考えてもいいかと思います。まだまだ、戦争で悲しい思いや辛い思いをした人が日本にはいっぱいいます。政治家がもっとしっかりしておればやらなくていい戦争だったのじゃないかとか、日本の戦争参加は外国からの圧力によるもので仕方のなものだった、とか。いろいろ議論すればいいと思います。
でも、戦争をやって、連合軍に負けて、アメリカに進駐されたことが結局よかったのかな、なんて考える事もできる。平和憲法ができて、69年間平和が続いてきて、経済が発展した。オリンピックや万国博等国際的イベントを一応やり終え、一流の平和国家として世界に認められてきた。
まあ、どっちにしたって戦争をやって迷惑するのは一般の国民だし、犠牲になるのはもっとも末端の人たちだ。
さて去年も戦争中の話をしたが、今年もしたいと思う。でも私自身戦後生まれだから私自身の経験したことではない。私の母から聞いた話だ。
まだ二十歳もなっていない頃、化粧もできず、食べたい物も食べられず、毎日のようにアメリカ軍の爆撃機の空襲に神経をとがらせ、青春時代を生きぬいてきた母からの話である。ただ、特にこれを持って戦争反対とか、賛成とか言っているわけではない。そんなドラマチックな話でもない。
終戦直前、昭和19年くらいだろうか。ある若い男性がいた。彼の家族といえば、母親と幼い弟妹が数人いた。父親はすでに亡くなっていた。彼は徴兵検査も合格し、ひたすら召集令状が来るのを待っていた。しかし、なかなか来なかった。同じ年頃、友達は次々と召集されているのに自分には来なかった。毎日毎日イライラして、郵便箱を覗いていたという。
来ない理由として、父親がいない事があった。彼自身が家族を養わなければならない立場であり、役場がそれを考慮していたのかも知れない。
しかし彼にとってそんな事は関係ない。国家存亡の時、家族も大事だが、それ以上に国の役に立ちたいと思う気持ちが先立っていた。それに兵隊に行かない者は一人前の男ではない。「非国民」と陰口をたたかれる。世間にはそんな風潮もあった。そんな周りからの精神的圧力もあったのかも知れない。
結局、行かざるをえないのなら、早く行きたい。そんな気持ちだったのだろう。
召集令状が来たとき、彼は嬉しかった。これでやっと普通の男になれると。でも母親は複雑な気持ちだったと思う。口には出さないが。
余談だが、私の母親は私の子供の頃、よく話してくれた。「あなたは男の子だから戦争が起こったら戦場に行かなければならない。男の子は家の跡継ぎだから産んでおかなければならないが、戦争に取られるくらいなら、産まない方がましだ。」と。
そして、ベトナム戦争やキューバ紛争、中東戦争などが起こり、戦場からの映像をテレビで見るたび、ビクビクしていたのである。戦争を経験して、多くの若い男性の戦死を見てきた母親にとっては他人事ではなかったのだろう。
幸いにもこの年になるまで私は戦争に行かずにすんだ。だからこそ私より若い人達にも戦争に行って欲しくない。
話を元に戻す。
召集されたものの、すぐには戦地へ赴くことはなかった。新兵だったし、それなりの準備や訓練が必要だったのだろう、内地にしばらくいた。
そして、いよいよ南洋の最前線へ船で赴く事が決まった頃の話。
彼は上官から用事を頼まれた。公用である。でも、その用事が終わって、時間が余っていれば家族に会って来てもよいという。用事の先が彼の家の近くだったし、用事の内容もそんなに時間がかかるものでもなかった。つまり表向きは公用で外出したのだが、ホントは、たまには家族に会ってこいといった上官の粋な計らいだったのだ。
久しぶりに母親にあって、嬉しかった。嬉しかった。でもこの時、母親はどんな顔をして、どんな気持ちでいたか、それはわからない。聞いた話にはそれはなかった。
その後、多くの兵隊とともに彼は船に乗って、戦地へ赴くこととなる。
しかし、いやな噂を聞いた。
ひとつ前に同じように多くの兵隊を乗せて出航した船が、アメリカの潜水艦の攻撃を受けて撃沈されたという。乗員も全滅したという。これがほんとうなら、多くの若い兵隊達は戦地で戦うことなく、海の藻屑と消えてしまったのだ。
当時のことだから、公の発表はなかったが、噂があった。
ひとつ前の船に乗っていたら死んでいたかも知れない。何ひとつ、国のためになる事もできず死んでいったのである。
そして彼がいよいよ船に乗ることとなる。
しかし、そこで終戦となった。
彼は、残念と思ったろうか? それともよかったと思ったろうか?
母親はそれから毎日のように息子の帰りを駅で待っていたという。
「彼」は戦後、サラリーマンとして日本の経済発展に寄与した。
そして70歳まで生きた。
私の伯父である。
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安倍首相は徴兵制はないという。憲法上。
でもそれは安倍首相の個人的意見であって、10年後、20年後の首相がそれを請け負う保証はない。
さらに、徴兵制はなくとも、軍隊に志願する若者、または志願しなければならないような風潮が蔓延するとも限らない。
ひとの心は変わるものだ。
自衛隊の存在自体、憲法違反であるといわれたこともあった。
それが今ではそういう事を思う人はいないだろう。三年前の東日本大震災の救助活動の活躍振りを見るとなおさらだ。
20年後、せっかく集団的自衛権があるのだから、たまには国外へ出ようよ。徴兵はできないから志願兵を募ろう。なんていう政治家や軍人が出てこないとも限らない。
でも結局、前線で戦うのは「彼」のような若い素人兵隊だ。職業軍人や年嵩の軍部上層部は銃後の立場で命令するだけだ。まるでゲームの駒を操るように。
戦争はゲームではない。負けそうだからといってリセットはできない。